「国家のため」と「家のため」

行き過ぎた個人主義が揺り戻す共同体精神(第16回) 日下公人氏 日経BP社

 最近の日本の一番大きな問題に、少子高齢化がある。高齢化のほうは喜ばしいが、少子だから高齢者の多い社会になるのだ。なぜ少子になるかというと、まず 女性が結婚をしない。「よい男性がいない」という。でも男性に聞くと「よい女性がいない」といっている。両方でいっているわけだから、仕方がない。40歳 の男性の2割がまだ独身だ。女性だけでなく、男性も結婚しない。つまり、子どもを持とうと思わない。「子どもはやっかいだ、1人で暮らしているのが一番いい」。これが個人主義だ。個人主義を徹底すると、妻も夫もわずらわしい。

少子高齢化」というのは「現代の日本」という限定された時代・地域の問題なんですよね。中国ではご存知「一人っ子政策」によって、人口増を抑制しようとしているんですよね。この説でいけば、中国ではむしろ「個人主義」が求められるということになるんだけど。もしくは複数子供を持ちたいという希望を持つのが「個人主義」になるのか…


産児制限(ウィキペディア)

戦後になるとGHQの指導下で厚生省が一転して「産むな殖やすな」運動を提唱。GHQの統治が終了した後もこの政策は維持された。戦争の終結と復員にともない出産が急増したが、ただでさえ立ち後れていた日本の経済基盤は戦争で破壊されており生活基盤も同様に破壊されていた。


日本でも産児制限政策がとられていたそうだ(知らなかった)。この時代だったら日下氏は個人主義を推奨したのだろうか?それが「お国のため」になるんだけど。


はてなブックマーク注目のエントリーで見つけた記事。
日本がアブナイ! : 柳沢「健全」発言について思うこと(1) 〜 結婚、出産が義務だったような時代に戻らぬために 〜

 他方、この発言に問題性や抵抗感を覚えた人たちは(男女問わず)おそらく20〜30
年まで、国の方針によって社会に強く根付いた女性の生き方(結婚、出産)の価値観、
ある種の定説のために、本人または身近な者が大きな社会的圧力を感じたり、その定説に
沿えなかったために大変な思いをしたりという体験があるか、それらを見聞して疑問を
感じていた人が多いのかも知れないとも思う。

「おそらく20〜30年まで、国の方針によって社会に強く根付いた女性の生き方(結婚、出産)の価値観、ある種の定説」って何だろう?確かに「産めよ殖やせよ」という政策が過去にあった。だけど、それ以前に、結婚・出産の価値観は存在していたでしょう。昔の人が子沢山だったのは、そうすることが家の利益になったからでしょうね。江戸時代初期には人口が急激に増えた。その後、横ばいになり、幕末から再び増大に転じる。それは子供が多いと得になる時期と、そうでない時期があったということだと思われる。かつて間引きは貧しいから行なわれたと考えられていたが、最近では高い生活水準を維持するための間引きもあったと考えられている。もちろん昔の人(女性にしろ男性にしろ)が自由であったというわけではなく「家」に縛られていた。「家」の利益ために個人を犠牲にすることが求められた。だが、国のためにそうしたのではない。


なぜか「右(?)」にも「左(?)」にも、国家の利益と「家」という集団の利益をごっちゃにしている人がいる。確かに「国家」も「家」も個人と対立するものではあるだろう。しかし、両者は異なるものである。両者の利益は対立することも珍しくない。これって区別するのがそんなに難しいことなんだろうか?それとも両者を一緒にすることに何か特別な意味があるのだろうか?どうもよくわからない。