筑紫哲也の死

俺は2003年から2004年頃、2ちゃんねる、その中でも特にマスコミ板に嵌っていた(あと日本史板)。その中でも毎日見ていたのが「朝夕の娯楽天声人語&素粒子。」「朝日の社説」そして「ここが変だよ筑紫哲也」だった。天声人語の当時の執筆者である、故小池民男氏の「アクロバティックな論調」や、筑紫氏の「多事総論」の支離滅裂ぶりを見て、それを揶揄する書き込みを読んで、時には自分も書き込むというのが日課であった。


だけど、小池氏が04年の3月で天声人語を降板した頃、同時に、批判の書き込みが劣化してきたこともあって、次第に2ちゃんねるを見る時間も減って来て、05年にブログがブームになる頃には、朝日&ニュース23ウォッチも飽きてきてしまったので、それ以降の筑紫氏にも関心を持たなくなってしまった。


当時思ったのは「左翼言論」の質の低さだった。俺は左翼ではないので、彼らと意見が異なるのは当然なのだが、それにしてもひどすぎた。本質的な批判をする以前の問題として、彼らの支離滅裂さ、ご都合主義、ダブルスタンダードを見て情けなく思った。本来それは、身内が批判すべきものだ。「味方」であっても批判すべきところは批判しなければ、全ての左翼が同類に見られてしまうではないか。ところが彼らは身内に甘かった。その傾向はつい最近まであった。今でもあるだろうが、あの頃に比べればましになったと思う。


一方、憂慮すべきだと思ったのは左翼に対してだけではなかった。左翼の質の低さは反左翼に対しても悪影響を与える。低レベルの言論を批判して勝った気になっていると、もっと本質的なものを見失ってしまう。そして今のネット界を見ると、この憂慮は現実のものとなっているようにみえる。そしてそれを批判しなければならないのは、やはり「身内」でなければならないのだが、それが非常に難しいことであると、今更ながら実感している…


さて筑紫哲也氏に関してだが、当時は非常にけしからんと思っていたのだが、今思うと、あまり印象に残っていないということに気付き愕然としている。「多事総論」で妙なことを言っていたという記憶はあるが、具体的に何を言っていたのか、さっぱり思い出せない。大したことは言ってなかったのだろう。そもそも筑紫氏の言論は左翼に影響を与えていたのだろうか?俺は左翼系ブログもウォッチしているが氏の名前を見たという記憶があまり無い。左翼に影響を与えるというよりは、左翼的な主張を代弁していたという人だったのだろうか。


だが「筑紫哲也 NEWS23」はとてつもない偏向番組であった。筑紫氏が番組制作にどの程度関わっていたのかは知らない。ウィキペディアによると、

筑紫は番組スタート当時の雑誌インタビューやみずからの著書『ニュースキャスター』などで「『君臨すれども統治せず』の編集長」と自らの立場を説明しており、番組の放送内容の構成に関して規制は少ないというスタンスであるという。

NEWS23(ウィキペディア)
とある。これが事実だとすると、あの番組の偏向ぶりは、筑紫哲也一人によるものではない。むしろ氏は「番組の顔」として、左翼的・攻撃的な番組に対する拒絶感を中和する役割として担ぎ上げられただけとも言えるかもしれない。


俺が筑紫哲也を知ったのは、氏が『朝日ジャーナル』の編集長になるという新聞記事を見た時だ(それ以前から名前は聞いていたかもしれないが)。『朝日ジャーナル』と言えば60年代、70年代の若者に大きな影響を与えた雑誌である。だが80年代には落ち目になっていた。俺も実は読んだことが一度もない。筑紫氏が編集長になったということで話題になったので、一度本屋で手にとってパラパラとページをめくったことはあった。だが全く面白そうではなかったので、立ち読みというレベルでさえない。


落ち目の『朝日ジャーナル』の編集長になったのには、それなりの理由があったのだろう。記憶は曖昧だが、当時読んだ記事には、『朝日ジャーナル』というか左翼自体が落ち目であり、一般人から乖離した存在になっていた。その状態を打破するために筑紫氏が抜擢されたというようなことが書いてあったように思う。この頃から筑紫氏は、浮世離れした左翼と一般人とを結びつける役割を期待されていたのだろうと思う。氏は左翼にありがちな攻撃的なイメージが薄く、温和な外見だから適任だったのだろう。