応仁元年(一四六七)八月、額田郡井田野で、尾張春日井郡品野・三河加茂郡伊保(ともに地名で、そこの誰かは不明)の兵と親忠は戦い、勝利した。それから九年を経過しても、戦場で死亡した亡魂が昼夜鬨(とき)の声をあげ、死者を葬った塚が鳴動する。人々は恐怖におののき、往来は絶える。そればかりではない。遠近の村々では病人が続出した。このことを聞いた親忠は、深く帰依していた愚底を開山として一寺を建立して亡魂をなぐさめようとした。愚底はこの寺に「成道山大樹寺」という名を付けた。
大樹寺は怨霊鎮魂の寺であった。
そして、大樹寺は岡崎城から見て北東の位置にある。
また、大樹寺の「大樹」は「将軍」の異称である。
こういう事実を見ると俺のトンデモアンテナがビンビンに反応する。大樹寺は方位信仰と関係あるのではないかと。
北東はもちろん鬼門。
⇒鬼門 - Wikipedia
「大樹=将軍」は大将軍と関係あるのではないか?
⇒大将軍 (方位神) - Wikipedia
なんてことを思いながら、いつものようにGoogle マップで大樹寺と岡崎城を結んでみる。
より大きな地図で 大樹寺 を表示
(より大きな地図で 大樹寺 を表示)をクリック。大樹寺を拡大すれば一目瞭然。大樹寺は見事に岡崎城天守の方角を向いている。
しかも、このラインは秘密でも何でもなく、「ビスタライン」という名前まで付いていた。
⇒ビスタライン(大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望)/岡崎市
⇒大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望(ビスタライン)| 名古屋まちづくり紹介 都市研究所スペーシア
ただし、上の記事の中にも書いてあるように、これは徳川家光が作ったものらしい。家光が作ったというのは、それはそれで興味深いのであるけれど、それ以前、大樹寺が創建された時代(当時は安祥から見てかもしれないけれど)にもそういう意識があった可能性は否定できるものではないと俺は思う。
あくまで妄想ですけどね。