というか

俺は数学的なことはさっぱりわからないんで、そっち方面の議論には関心なかったんだけれど、
数学野郎どもアリガトウ - 地下生活者の手遊び


元々の話の発端はこれですよね。

町議会や村議会の運営と、国会の運営との間には、程度の差だけではなく質的な差があることは周知の事実です。前者の場合、特に或るイデオロギー的内容に基づいて決議がなされるというわけではなく、ピエールとかジャックとかいう個人の考え、とりわけその具体的な人柄を知ることも、考えを決する基となります。その場合、人々は全体的に、大づかみに、人の行動を把握することができます。思想もたしかに問題にはなりますが、しかしそれらの思想は小さな共同体の一人一人の成員の身の上話や家庭事情や職業的活動によって解釈されうるものです。こんなことはみな、或る人数以上の人口の社会では不可能になります。私がどこかで「真正性の水準」と呼んだのはこのことを指しているのです。

[シャルボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』(みすず書房)55-56頁、訳語は一部(小田氏が、引用者注)変更した]

2009-03-26 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

「町議会や村議会の運営」って書いてあるじゃないですか。


ここで言ってるのは、たとえば村議会の自民党議員のAさんとか共産党議員のBさんといったって、イデオロギーの要素よりも、その人の個性(個人の考え、とりわけその具体的な人柄)が重要になるってことですよね。実感としてもそんな感じですよね。これが国会運営だとそうはいかないって話でしょう。


もちろん国会議員だって定数は480人で、全員を知ってるとは言わないまでも、それなりに顔見知りでしょうが、そういう個性で運営されている部分は村議会よりは遙かに小さいですよね。それは、議員の数が国会の方が多いからってことが肝なわけじゃないですよね。その背後にある規模が全然違うってことでしょう。


規模が大きくなれば、具体的な話ではなくなりますからね。何々町の何さんが生活に困っているということじゃなくて、貧困率が何%とかいう話になりますからね。


俺が思うに、それは人間の能力の問題じゃないかと思いますけどね。1000人程度の集団なら、個別の事例を扱うことができるでしょう。常に1000人全員の個々の問題を扱っているわけじゃないですからね。しかし1億2000万人の中の個別の事例を取り扱うのは無理でしょう。せいぜい陳情団体の話を聞くとか、世間で大きな話題になったケースとかに限られるでしょう。


そんなわけで、ここでの話は「認知的な限界」というよりも、集団の中で発生する個別事例を個別事例として処理できる能力の限界が重要になってくるんじゃないかと思うわけで、それを数学的に算出することは不可能であり、経験的なものから推測するより外はないのではないかと、俺なんかは思うわけであります。