大国大東さんという方から「一度私のブログを訪ねていただけませんか」とコメントを頂いたので早速訪問してみました。
まだ全部読んでないし、検証するのは時間がかかると思うんだけれど、とりあえず目に入ったのはこの記事。
⇒日光東照宮本殿の正確な位置関係、安土山と金剛山と日光東照宮 - 富士山を基点に西の出雲を要の地とし間中に飛鳥と三都を置く国家的価値観『大和朝廷の神々の日本設計図』 - 楽天ブログ(Blog)
中でも、
という記述。
俺は安土山の地理関係に並々ならぬ関心があるんだけれど、日光東照宮と関連付けて考えるという発想は盲点だった。
早速検証してみた。
日光東照宮と関連付けるからには、それに対応するのは総見寺であろうと考えて「本堂跡」を基点にしてみた。
すると多賀大社が誤差無く直線上に位置する。これは面白い。
ただし関連がすぐには思いつかない。あと「海神社」というのが神戸の海神社のことだとすると、位置的にずれている。これは良くわからない。
しかし、この直線を見ると面白いものが見つかる。
それは岐阜の「崇福寺」。
(直線から200〜300メートルほどずれてはいるけれど)
伝承によれば、鎌倉時代に創建。荒廃していたのを1511年(永正8年)に斉藤利匡の手で移転整備。1517年(永正14年)に改称したという。
別の説としては、1469年(文明元年)に、土岐成頼と斎藤長弘が建立し、1493年(明応2年)に開山したという。
1567年(永禄10年)、織田信長が岐阜に入ると、崇福寺は織田家菩提寺となる。1582年(天正10年)、本能寺の変により織田信長と織田信忠が亡くなると、二人の遺品は側室のお鍋の手で岐阜城から崇福寺に持ち込まれ、織田信長・信忠廟所に埋められたという。
1600年(慶長5年)、織田秀信は石田三成の挙兵に呼応し、関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城する。岐阜城が廃城後、崇福寺は岐阜城天守の床板を譲り受け、この戦いで戦死した38名の武将を弔う為に本堂の天井板に使用する。
江戸時代には朱印地となり保護を受け繁栄する。また、有栖川宮の祈願所となる。春日局と関係があることから、徳川家光は特に保護をしていたという。
魅力的なキーワードがいっぱいありますね。
地図はこちら(より大きな地図で 安土-日光 を表示をクリックすると詳細が見れます)
より大きな地図で 安土-日光 を表示
これを直線上にあるとするならば、信長の墓所-信長の墓所-家康の霊廟が直線で並ぶことになりますね。
※なお「道三塚」というのは文字通り斉藤道三の墓。1837年に現在地に移転されたそうだから、元の位置はわからないけれど、そう遠くは離れてないだろうと思われ。
⇒史跡回廊【織田信長編】〜道三塚〜
(なお、安土・崇福寺・東照宮の位置関係が意図的なものだとしたら、順番としては先に日光と崇福寺があって、その後に安土を選定し、さらに日光東照宮ができたという可能性ってことでしょうね)