⇒404 Blog Not Found:ほんと馬鹿 - 書評 - 科学的とはどういう意味か
言うべきことは山ほどあるが、最近この手の話題に関わるのが億劫になってきた。でも、この点だけは書いとく。
記事によると『科学的とはどういう意味か』(森博嗣)に
したがって、もし人間を不幸にするものがあれば、それは間違った科学、つまり非科学に他ならない。
と書いてあるという。
科学の発展は仮説と実証の積み重ねであるから、もちろん中には「間違った仮説」もあれば「正しくなかった実験」も膨大にあったし、現在も膨大に生産されている。しかし、それらは決して「ニセ科学」ではない。単に間違っただけである。
ただし、両者の「間違った」の意味は異なる。前者は「人間を不幸にするもの」についてであり、後者は「間違った仮説」「正しくなかった実験」についての話だ。
そんなの文脈を見ればわかるだろって?そうかもしれない(しかしその考えは楽観的すぎるかもしれないとも内心思う)。
だが、意味が異なるものに対して同じ「間違った科学」という表現を使うのは相応しいとは思えない。
どっちが改めるべきかといえば森氏の方だろう。なぜなら、それを「間違った科学」と呼ぶなら、菊池先生(菊池先生だけではないと思うが)の言うところの「間違った科学」についてはどう表現するんだという話になるから。
※(「非科学」についても同様)
それにしても森氏の主張は実際に本を読んでいないとはいえ、
したがって、もし人間を不幸にするものがあれば、それは間違った科学、つまり非科学に他ならない。
とうのは、どんな文意であろうと同意しかねる話だ。
多くの人が真っ先に考えるであろう「幸せ」とは何であるかという問題は置いといて(もちろん重要な問題だが)、世の中には明確な幸せと不幸の区別があるとしたとしても、それはいつの時点での話であろうか?幸せを目標にしたものが必ずしも幸せを呼ぶとは限らない。幸せを目標にしていた時点では「科学」だが、それが人間を不幸にするとわかった時点で「非科学」になるのだろうか?それはいわゆる「トカゲの尻尾切り」というやつではないのだろうか?
※ 森氏の言いたであろうことは、俺ならば、人を不幸にする科学を「非科学」として科学から除外にするのではなく、「科学は時に人を不幸にする結果を招くこともある。しかしそれを防ぐのにも科学が必要である」と表現するだろう。