「蓬莱宮のかんてん」の「かんてん」は全く意味不明でお手上げなんだけれど、「蓬莱宮」の方は意味ありげに見える。というのも「蓬莱」は織田信長にも長宗我部元親にも関係するキーワードだからである。
まず信長の方から。天正三年、元親家臣の中島可之介が信長に面会したのは「尾州」だと『土佐物語』に書いてある。当時の信長の居城は岐阜城だ。誤りの可能性もあるが、「織田信長 年表」を見ると天正三年に確かに尾張に滞在していたことがわかる。
5月13日 家康からの援軍要請を受け岐阜城を出陣。
同日 岐阜城 ⇒ 尾張熱田 ⇒ 14日 三河岡崎 ⇒ 16日 牛久保城 ⇒ 18日 志多羅 極楽寺
5月21日 鉄砲を駆使し、設楽が原で武田勝頼に圧勝。長篠・設楽が原の戦い。
5月25日 岐阜城に凱旋。
⇒織田信長 年表
見てわかる通り、長篠合戦直前の5月13日に尾張熱田にいる。
もし5月に面会したとしたら信親に偏諱を与えるまで五ヶ月の間があるのが、こういうことに疎い俺には良くわからないけれど、そこはスルーする。
熱田神宮が信長と関係が深い神社であることは言うまでもない。ところで尾張の別称を「蓬州」という。その由来は熱田にある。
熱田の地は古来から「蓬莱島」と呼ばれています。
その由来は、波静かな年魚市潟(あゆちがた)に面し、老松古杉の生い茂る熱田の杜が、海に突き出る岬のように見える事から、不老不死の神仙の住む蓬莱島(中国の伝説)に擬せられたからであろうといわれています。
『熱田神宮』(篠田康雄著 学生社)には,鎌倉末期,比叡山の僧が書いた『渓嵐拾葉集』の中で,「蓬莱宮は熱田の社これなり,楊貴妃は今熱田明神これなり」と紹介されています。
中島可之介が熱田で信長と面会したのだとすると、まさにその地が「蓬莱宮」だったのである。
とすれば「蓬莱宮のかんてん」とは「鳥無き島」に対応するものとして「蓬莱島の蓬莱宮」にいる信長のことを形容したのだという可能性もある。
(俺が検索した限りではそのことを指摘しているものは見つからなかった)
(つづく)