将軍足利義教は八百長で決まったのか?

2012-10-19の続き


結論からいえば八百長ではない。少なくとも本郷和人氏の八百長説は到底受け入れることができない。本郷氏流に言えば、これぞまさに「珍妙な考え方」というものである。


『人物を読む 日本中世史 頼朝から信長へ』(講談社 2006)のこの主張はつっ込みどころが多すぎてどこからつっ込んだら良いのか悩むのだが、まず基本から。

 この辺りのことは、論文などの堅い文章では叙述しづらい。そこで私は『建内記』という貴族の日記を持ち出して説明した。同記にはくじを三回引いたら三回とも義円と出た、とある。確率は六四分の一で、この数字は現実にはあり得ない。八百長だ、と。
 すると、ある研究者は『建内記』より『満済准后日記』を用いるべきだと説き、ある研究者は『満済准后日記』にくじで義円に決まったと書いてあるのに従わないなら、もはや実証史学ではなくなる、と力説する。そんなつまらないこと言われてもなあ…。反論くらいすぐに想定できるでしょうに。史料操作って知ってますか?日記って、本当のことしか書きませんか?あなたには「墓場までもってく秘密」はないですか?(いえママ、ぼくにはそんなもの、ありませんとも)等々。でも、そんな低レベルな議論はしたくないよなあ。

建内記』に「くじを三回引いたら三回とも義円と出た」(義円=義教)とある。それを本郷氏は本当のことだとした上で「現実にはあり得ない」ので八百長だとする。これは『満済准后日記』には載っていない。


※なお「『満済准后日記』にくじで義円に決まったと書いてある」とあるが、『建内記』も「くじで義円に決まったと書いてある」のである。だが「現実にはあり得ない」から八百長だというわけで、それは本郷氏の推理であって『建内記』に八百長だと書いてあるわけではないことは、読めばわかるとは思うが一応書いておく)


※ついでに言うと三回連続で義円が出る確率は確かに六四分の一であるが、他の三人が三回連続で出る確率も六四分の一であり、四人のうち誰かが三回連続で出る確率は一六分の一である。



さて、本郷氏の主張を見ると『建内記』に三回連続で義円と出たとあり、それが八百長っぽいのにもかかわらず、それを採用しない研究者がいるということになる。より正確に書けば、先に書いたように『建内記』に八百長だと書いてあるわけではないので、建内記』には八百長だったのではないかと疑える内容が書かれているのに対し『満済准后日記』にはそれが書かれていないということである…


と書けば『建内記』と『満済准后日記』のどちらを信用するのかというのは単純な話のようにみえる。満済が三回連続で義円が出たことを意図的に隠蔽した可能性は否定できないように思う人もいるかもしれない。


しかし、話はそう単純ではない。そもそも建内記』と『満済准后日記』の記事は全く違ったことが書かれているのだ。すなわち、満済が都合の悪い部分だけを隠蔽したというような話ではないのである。


(つづく)