「ごん狐」の解釈

「ごん狐」は死を覚悟して村人の家に行った 今、明かされる児童文学史上の大きな謎:JBpress(日本ビジネスプレス)

 普段読まれている「ごん狐」では、撃たれたごんは、兵十に「お前だったのか」と言われて、目をつぶったまま、うなずくだけです。しかし、元の『権狐』では、「ぐったりとなったまま、うれしくなりました」と喜びの感情が込められているのです。まるで、撃たれて本望を遂げたようです。

──すると、ごん狐は、自分の罪をあがなうために、わざと撃たれたのですか?

畑中 そういう贖罪の物語と読まれることは多いですね。私の友人の宗教学者は、また別の解釈を提示していて、ごんは人間界と自然界を結びつけるために、みずから生け贄になったと指摘しています。
愛知県半田市に残る、新美南吉の生家。(撮影=畑中章宏)

 私自身は、新美南吉の創作の意図を想像しました。ごんが撃たれて死ぬという結末を提示することで、どんな善良な人間にも暴力性がひそむことを描きたかったのではないでしょうか。

つまり、
1、罪をあがなうために撃たれた
2、人間界と自然界を結びつけるために自ら生贄になった
3、どんな善良な人間にも暴力性がひそむ
という説があると。


どれも納得いかないんですけど。

 普段読まれている「ごん狐」では、撃たれたごんは、兵十に「お前だったのか」と言われて、目をつぶったまま、うなずくだけです。しかし、元の『権狐』では、「ぐったりとなったまま、うれしくなりました」と喜びの感情が込められているのです。まるで、撃たれて本望を遂げたようです。

なぜ、ごんが「うれしく」なったのかということは明確なんじゃないですかね。「兵十の家に栗や松茸を置いていくのがごんだったことを兵十が知ったから」からでしょう。

「そうだとも。だから、毎日、神様にお礼を言うがいいよ。」
「うん。」
 ごんは、「へえ、こいつはつまらないな。」と思いました。「おれがくりや松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで、神様にお礼を言うんじゃあ、おれは引き合わないなあ。」

ごんぎつね-本文


ごんは自分が悪いことをしたと思い、罪滅ぼしのために兵十の家に栗などを置いていた。ところが途中で心境が変化する。兵十に自分がやっているのだと認められたいという感情が芽生える。罪滅ぼしでやっているにもかかわらず「感謝されたい」と思うようになった。そして最後に認められて願いがかなう。

「ごん、おまい(おまえ)だったのか、いつも、くりをくれたのは。」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。

改変後には「うれしくなりました」は削られているけれども「うなずきました」とあることで、兵十は理解したのだなということがわかるようになっている。


といってももちろん「めでたしめでたし、ごんの努力は報われました」ということではない。ごんがそういう願いを持ったのは良心からきたものではない。普通なら自分勝手な感情と批判されるべきことだろう。しかし逆に「そんな自分勝手な願いを持ったから殺されたのだ」という話でもない。


「ごん狐」という話は意図的にそうしているのかは知らないが、何らかの意味を見出そうとすると裏切られるようになっている。まるで「ありのままの世の中」にそのような超自然的な力が作用する起承転結などないと言いたいかのように。


そこが一番肝心な点だと思うんですけどね。