小学生が深読みする必要なないかもしれない。しかし我々は大人なんだから大人には大人の読み方があろう。
ここで必要なのは科学的な視点である。すなわち「ごんは狐だ」ということだ。狐がいたずらを反省したり、人の境遇を憐れんだり、人に感謝されたいと願ったりするなんてことはおよそ考えられない。少なくとも人と全く同じ感情を持っているなどということはない。たとえ人の目にはそのように見えたとしても本当は狐が何を考えているかなんてことはわかりようがない。
こんなことを言うと「大人げない」と感じる人がいる。確かに昔話に出てくる動物のほとんどは擬人化されたものであり、「桃太郎」の犬・猿・雉が人間の言葉を発するのはおかしいとか「かちかち山」の狸や兎の行動が現実にはあり得ないとかいうのを「大人げない」というのはその通りだろう(その割にヤマタノオロチ退治は治水を神話化したものだとかいった神話の合理的解釈もまかりとおっているのだが)。
しかし「ごん狐」に限っていえば、「狐は動物だ」という科学的視点が大切だと思うのだ。
そういう視点で見れば、話の最初にある
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
という部分が重要になってくる。
伝聞であるからこの話は実話ではないかもしれない。しかし実話であるとしても、科学的視点を持ってみれば、ごんが人間と同じような感情を持っているという部分については「事実」ではないということになる。
※ なお、本来の話では兵十の母の葬式を見て悪さをしなくなったというものであったそうで、それ以降は創作だと考えられているけれど、ここで言いたいのはそういうことではない。「茂平というおじいさんが語ったというのが事実だとしても」ということだ。
「ごんの心情」とされているものが、科学的にはありえないものだとすれば、これは「ごんはそのように考えたのだろう」という人間側の想像だということになる。では誰が想像したのかということになるが「私」(新見南吉)ではない。兵十の可能性もあるけれど、ごんを撃った時点での兵十にそこまで考えることができたとはちょっと思えない。兵十から茂平に至るまでの話を語り継いだ人々によって、ごんの心情が忖度されていったのだろう、ということになる。
なお、ごんはただの狐ではなく霊獣だという意見がある。
畑中 南吉の時代、狐は人を化かすことのできる一種の霊獣と考えられていました。南吉自身も、他の作品に狐を登場させるときは、人を化かす能力があるものとして描きます。「ごん狐」に次いで、よく知られた童話「手袋を買いに」では、母狐が子狐の片手を人間の子供の手に変えています。
ごんも、人間のすぐ近くにいて会話を盗み聞きしているのに、ずっと姿は見られていません。最後は正体がばれてしまいますが、普段は「尻尾をつかまれない」術を身につけているのです。
⇒「ごん狐」は死を覚悟して村人の家に行った 今、明かされる児童文学史上の大きな謎:JBpress(日本ビジネスプレス)
普通の「昔話」ならばそこに出てくる狐はただの狐ではない。しかし「ごん狐」のごんはそれらと同等に考えるべきではないと思う。
「ごんは霊獣ではなくて現実世界に存在する獣の狐にすぎない」
そのように考えて、この話を読めば、ごんの心情とされているものは人間側の想像にすぎず、事実は「村人に迷惑ばかりかけている害獣の狐が、兵十の家に栗や松茸などを運ぶという意味不明の行動をしていたが、兵十に見つかり、いたずらをしにきたと思われて銃で撃ち殺された」という見もふたもない話になる。そして村人達は狐の意味不明の行動の理由を考えて、兵十の母が死ぬ前にうなぎを盗んだことを思い出し、その罪滅ぼしのためにしたのだと想像したということになる。
そこには「因果応報」だとか「贖罪」だとか「生贄」だとかいった超自然的な要素は一切ない。単に原因と結果があるだけであって深い意味など何もない。
しかし、人はそれでは落ち着かない。そこに何か意味を見出そうとする。この話を語り継いだ人達によってごんの心情が忖度され、さらに読者によって意味づけがなされる。
ごんが人間的感情を持っていることは超自然的ではあるが、その要素を省いても話が破綻しないように出来ている。つまり、核となる話は「本当にあったこと」であるかのように作られている。そして話を伝聞とすることによって超自然的要素は後から付け加えられたのではないかと考える余地を残しているということから考えて、新見南吉及び鈴木三重吉は意図的にそういう話にしたのではないかと思うのである。
(前に書いたが鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は超自然的要素を省いた幻覚などの合理的解釈で説明可能なように意図的に作られていると考えられる。「ごん狐」もそれと同じだろう)