唯物史観の残滓

俺はマルクス主義について詳しいわけではないので適当なこと書くけれど…


唯物史観というのは、歴史も自然科学と同じように法則があり、人類社会は原始共産制から奴隷制封建制→資本主義→共産主義と段階的に発展するという「普遍的な法則」を持っているという考えだと思う。


で、日本も当然その例外ではないという信念から、この時代はどの段階にあてはまるのかなんてことが歴史学において論じられてきたわけで、一昔前の歴史の本を読むとその手の用語が頻出する。


そんで、これは人類社会の「普遍的な法則」であるから、Aの段階からBの段階へ移行するのは必然であり、それに逆らうことは不可能であるからして、現実の社会において差異があるのは早いか遅いかの違いということになる。で、最も早く発展しているのがヨーロッパなのは当然として、日本の発展具合はどの程度なのか?それなりに進んでいるのか、それとも遅れているのかなんてことが問題になったりする。


で、それなりに進んでいるのだとしたらその原因は何か?遅れているのだとしたら「進歩」を邪魔したのは何か?ということになり、「進歩」に寄与したと考えられる人物は革命的英雄として称賛され、そうでないものは低く評価される。


てなわけで、織田信長は「中世を破壊した英雄」として称賛され、今度は実はそうでもなかったという説が出てきて信長は革命家ではないし、英雄視すべきでもないという見方が出てきた…


と、こういう流れになっているんでしょう。


しかしながら、唯物史観が既に崩壊している現在においては、信長を英雄視しようがしまいが、どっちにしろそういう視点で歴史をみること自体が時代遅れなのではあるまいか?いいかげん唯物史観から脱却しなければならない。そういう人達が全てマルクス主義者なのかは知らない。だが、無自覚にせよ、未だに唯物史観をひきずっている歴史家は多いように思えるのである。


ただ、もちろん歴史の見方として、現在から過去を見るということも有り得るわけで、日本が現在先進国の一員になっているのは歴史によって形成されたものが現在の産業社会において有利に働いたということはあるわけで、その礎を築いたのは誰かといった話は可能だろう。しかしそれはあくまで現代的視点でみた歴史であって、当の本人が現代社会を予測してそうしたわけではないことは頭に入れておかなければなるまい。