「同心」の意味(2)

引き続き「東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候」について。


元親は元々「敵」ではないから「同心」とは「敵から味方になる」というような意味ではない。ただし「味方する」は必ずしも「敵から味方になる」という意味とは限らない。それについては後ほど。


「同心」を「指示に従いたい」と訳すのはどうだろうか?「同心」とは「同じ心」であり、「信長が考えることは元親が考えることと同じ」だとすれば「指示に従う」ということに不自然はない。


ただ信長の「指示に従いたい」とは、具体的にはどんな指示に従うということなのか?


真っ先に考えられるのは「信長の四国政策に従う」ということだろう。信長の四国政策とは『元親記』によれば「豫州讃州上表申。阿波南郡半國本國に相添可被遣と被仰せたり」とあるが、これが事実だとしても天正10年正月に石谷頼辰が派遣された時点のことで、天正10年5月7日の織田信孝宛朱印状では、讃岐は信孝、阿波は三好康長に与え、伊予・土佐のことは信長が淡路に出馬してから決めるとしている。


しかるに元親書状では、阿波の海部・大西両城は手放せないとして「爰ニ御成敗候ヘハとて無了簡候」と主張している。「無了簡」とはどういう意味なのかというのがまた問題なのだが、少なくとも元親は納得していないことは確かであり、にもかかわらず「同心」というのも妙な話である。


※「同心」が具体的な指示のことではなくて、信長の命令とあれば何でも従うという意味という可能性もあるけれど、その場合でも上記の理由により妙な話であることに違いない。


※なお、天正10年5月7日の信孝宛朱印状の内容を元親が知っていたとしたら、そもそも元親書状に書かれていることは不自然である。桐野氏はこれを「信長の命令に表面上は従うとしながらも、両城の確保という例外を認めさせる条件闘争に転じている」と見ているけれども納得しがたい。元親は新しい四国政策のことを知らないのだと思われる。それは5月21日になっても情報が届いてなかったという可能性も考えられるけれども、既に書いたように「書状に書かれていることは天正10年正月に石谷頼辰に語ったこと」でありその時点では新しい四国政策を知る由もないと理解するのが一番無理がないと俺は考えるのである。


以上の理由から、元親が「同心」すると言ったのは、信長の命令全てに従うという意味でもなく、阿波から全面撤退せよという命令に従うという意味でもなく、それとは別のことに「同心」するという意味であると俺は思うのである。


それが何かということはまた後ほど。