定義とは何か?(その2)

定義とは何か? - 国家鮟鱇
のつづき。

俺が「定義とは何か?」という疑問を持つようになったのは、前の記事に書いた「幽霊の定義」の件もあるけれど、記事を書こうと思った直接のきっかけは
【読書感想】日本の反知性主義 - 琥珀色の戯言
を読んだことにある。「反知性主義」という言葉は良く目にするが、そもそも「反知性主義」とは何か?というのがどうにもよくわからない。そのことについては既に何度も書いた。この疑問を持っている人は俺だけじゃなくて、結構いるらしい。


で、fujiponさんの記事に

 ちなみに、この『アメリカの反知性主義』での反知性主義の「定義」は

 反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」と定義される。

となっています。

反知性主義の「定義」が書かれている。ところが実はこれは一部抜粋で、『アメリカの反知性主義』(リチャード ホーフスタッター みすず書房)には、

定義というものは論理的には弁護できても、歴史的には恣意的な行為である。そこに利点があるとは、私にはとても考えられない。定義するには、重なりあう諸特徴からひとつだけを選り抜かなければならない。私が関心を持っているのは、この重なりあったもの自体 - 多くの接点を持つ、さまざまな心的姿勢と理念の歴史的関係を複合したものである。私が反知性主義と呼ぶ心的姿勢と理念の共通の特徴は、知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である。あえて定義するならば、このような一般的な公式が役に立つだろう。

と書かれている。ホーフスタッターは定義に「利点があるとはとても考えられない」とおっしゃっている。


正直、ホーフスタッターの言ってることが理解できない。定義は大事でしょと思うからだ。それは俺だけではないはずだ。多くの人が定義を欲していることは疑いない。なぜ定義することに利点がないというのだろうか?おそらくこの点が『アメリカの反知性主義』という本が何を主張しているのかにかかわっていると思うのだけれども、俺はこの本を消化しきれずにいる。


それともう一つ、ホーフスタッターが「あえて定義するならば」としたものが、俺には理解できないのである。なぜ理解できないのかといえば、具体的なイメージが湧かないからだ。より正確にいえば、具体的な事例をイメージすることは出来ないことはないけれども、そのイメージで反知性主義を理解してしまった場合、ホーフスタッターが反知性主義と呼ぶものとのズレが生じてしまうのではないかという不安があるのだ。いや具体例は本に書いてあるんだけれど、俺はアメリカ人じゃないから、なんというか「背景」というか「空気」というか、そういうものがよくわからないのである。だからもっと明確な定義が欲しくなるのである。


そんなわけで俺は『アメリカの反知性主義』の冒頭でつまづいてしまって、なかなか前に進めないのだ。


しかし、それが本当に正しい理解なのかは全く自信がないけれども、思うところはある。おそらくはホーフスタッターが反知性主義と呼ぶものとは、アメリカ合衆国において「あれは反知性主義だ」と呼ばれているものではないかと思われる。


なぜ反知性主義と呼ばれているのかといえば、統一された定義があるわけではなく、呼んでいる人が「反知性主義」だと思ったものが「反知性主義なのだろう。つまり今の日本の状態と同じ。


であるならば、反知性主義と呼ぶものは、人によってバラバラになる。バラバラなんだけれども、それでもそこには共通点があるだろうという予想は可能だろう。でもその共通点を見つけ出すことにはそんなに意義はない(とホーフスタッターは考えているのではないか?)


そして「共通点があるだろう」という予測があれば十分で、それを突き詰めていくよりも、「反知性主義と呼ばれているもの」を一つのグループとして、さらにそれらの「反知性主義と呼ばれているもの」の一つ一つが、今に始まったことではなくて、「反知性主義」とは呼ばれていないけれども、それと同類のものは過去にもあったということから、現代の反知性主義の形成を考察しようというものではなかろうか?いやもう最初の方で挫折してるんで、全く自信ないんだけれど。



で、元に戻って、とにかく俺が欲するものは「定義」なのだ。しかし反知性主義というものがそういうものなら反知性主義を定義するのは困難かつ、弊害をもたらしかねない。じゃあ定義しなけりゃいいじゃんと言うのも俺には我慢ならないことである。だってそんなややこしいものを認めてしまうと、絶対確実に反知性主義という言葉を都合よく使う人が出てくるからだ。というか既にそうなっている。その中でも顕著に悪用している人物の一人がfujiponさんが紹介している『日本の反知性主義』の編者の内田樹先生であると俺は確信するのである。


※ 具体的にどう悪用するかといえば、たとえば特定の対立するグループにおける少数の「反知性主義」と呼びうる事例でもって、そのような事例が発生するのはそのグループ全体に潜在的に存在する要因のせいであり、決して少数の事例のみが問題なのではなくて、グループ全体に致命的な欠陥があるのだと思わせるといったようなこと。「反知性主義」の曖昧な定義を良いことに、定義Aと定義Bを都合よく使いこなせば、そういうトリッキーなことは簡単にできるのである。


そんなわけで俺は反知性主義」なんて言葉は封印すべきだと思うのである。そしてそんな言葉を嬉々として使う輩はその時点で胡散臭い奴だとみなすべきだと思うのである(実際そうなんだから)。


もし、どうしても反知性主義的なことを論じたいのなら、ちゃんとした定義を持っている類語を使用するか、ちゃんと言葉を定義した上で新しい用語を造語すべきであると思うのである。