西部邁曰く

道徳をはじめとする実際的知識は、「行動習慣」という、宗教的・社会的な要素を意識せずとも含んでいる精神の不純物における、時間をかけた「沈殿物」なのである。その不純物を分析し、技術的知識によって(たとえば「人間の権利」というような)普遍的理念だけをあたかも貴重な金属のように取り出すやり方がある。しかしそれは、道徳ではなくイデオロギーを作り出す作業にすぎない。保守思想が理解したのは、こうした経験の沈殿物のほうが、分析された抽出物よりも、人間の物事にたいする取り組みにたいして「確実な」前提を与えるということについてであった。
このことは技術的知識にかんする自己批判においてすら確認されているところであった。たとえば科学的認識における「確実性」の根拠を尋ねたマイケル・ポランニーは、「暗黙知」がその根拠なのだといわざるをえなかった。そして暗黙知とは、この場合、科学者たちの行動習慣において半ば意識せずに共有されている前提的な知識のことなのである。

「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」(チェスタトン)、「人類全体のなかで病的な例外をなしているのはわれわれ知識人のほうなのだ。堕落した階級に属しているのは実はわれわれなのである」(同)というのはどういうことか。それは、その存在意義を合理的に説明するのが難しいという理由だけで慣習を破壊する、その近代の運動を指導してきたのが知識人だということである。

(『保守思想のための39章』西部邁 ちくま新書


今の日本で「保守思想」を知識として正しく理解しているということに関しては、西部邁の右に出る者はいないと俺は思っています。


その西部氏にして、実践的な話になるとインテリ臭がプンプンして、リベラルな知識人みたいになってしまうというのが、言論界において「保守」であることがいかに難しいことなのかってことなんだろうと思う。