計算機を用いたシミュレーションによって、レイライン探索家が発見したレイラインの数と平面上にランダムに点を配して引けた線の数とがよく一致することが確かめられた。これはレイラインがまったく偶然の産物である可能性を示唆している。
俺は数学に詳しくないが、これは不思議な現象だ。なぜなら「レイライン探索家が発見したレイライン」の中には、上にも書いたように誤差の多い非常に怪しげな「レイライン」も含まれているのではないかと思われるからだ。それらを排除したら「レイライン探索家が発見したレイライン」が減少して数が一致しなくなるのではないか?また計算機を用いたシミュレーションでは特に何の関係もない点であってもレイラインと認識してしまうが、「レイライン探索家」はさすがに何でもありというわけでもないだろう。するとここでも一致するほうがおかしいということにならないだろうか?この「シミュレーション」の詳細がわからないことには何ともいえないのだ。
さらに言えば、本来ならば「何の関係もない聖地」であったものが、まさに「ランダムに配した点がなす直線」という現象で、古代人(あるいは中世人)によって両者は関係があるものとみなされる可能性だってある。例えば複数の山と山の頂点を繋げると直線ができるのは、山は自然物であるから「偶然の産物」であるのは当然であるが、そのことに古代人が気付けば、それを「偶然」とは見なさず、神のなせる仕業として、それらの山に同じ神を祀るとか、同じ名前を付けるとか、神話を作るとかするかもしれない。それを現代人が「再発見」した場合、複数の山と山が直線で結べるのが「偶然」であることは確かだとしても、そこに古代人の思想が反映していることまでは否定できないのではないか。
このように「レイライン」の問題は難しいのだが、だからといってこれを無視することは非常に大きな損失だろう。頑なに否定するのではなく、懐疑的な姿勢を維持しながら、より深く探求していくべきものなのだ。無視するのはまだしも、嘲笑の対象にするなどというのはもっての外なのだ。
「と学会」の原田実氏は『トンデモ日本史の真相』(文芸社)で
今のところ、日本版レイライン探査は学問上、有益な成果をあげているとは言い難い。しかし、地図上の遺跡・史跡の配置に法則性を求める試みは遊びとしては面白いし、そうした結果が積み重ねられれば将来、そこから大きな発見が得られる可能性もある。
と書いている。こういう姿勢が大事なのだ(しかし、「面白い」という懐疑論者は、数は少ないとはいえ、いないこともないが、「面白い」というだけで、自分でやってみるということはしていない模様)。
日本における一番有名なレイラインが「太陽の道」であるのは非常に不幸なことだ。ビリーバーはこれを疑いも無く信じ、否定論者はこれをもってレイレイン全体を否定する根拠とする。それではダメなのだ(もっとも「レイライン」という呼称自体が疑似科学的であることは否定できない。他に適切な用語があればそっちを使うのだが…)。