「真正な」保守

たびたび引用している、『保守主義 ― 夢と現実』(ロバート・ニスベット 宮沢克・谷川昌幸訳 1990年 昭和堂)より。

レーガン現象のもたらした結果のひとつは、真正である(Authenticity)か真正でない(Inauthenticity)かという問いが一種の強迫観念となったことである。

もし、おとぎ話にでてくる魔法の鏡を今日のワシントンに持ってくることができるなら、試しに国家がその鏡を使って、「すべての人のなかで最高の保守主義者はだれか」という問いに対する様々な回答の中から最適の回答をひとつ選び出してみるとよいだろう。最高の保守主義者は。今日は、中米紛争への参戦を求める人かもしれない。明日は、中絶実施病院の前や「ベビー・ドゥ」の生まれる産院で不屈のピケをはる人かもしれない。あさっては、財政的平等主義のための計画を煽動するポピュリストかもしれない。われわれには、知るよしもない。ただひとつのことを除けば。すなわち、自己の祖先をゴールドウィーター、タフト、クリーヴランドを経て、遠くジョン・アダムズエドマンド・バークにまで遡ることのできる人は、ここでは間違っても最高の保守主義者に選ばれることはないということである。

ここ大事なことなので繰り返しておきましょう。

すなわち、自己の祖先をゴールドウィーター、タフト、クリーヴランドを経て、遠くジョン・アダムズエドマンド・バークにまで遡ることのできる人は、ここでは間違っても最高の保守主義者に選ばれることはないということである。

レーガン現象の解体 ‐ すでにはじまっている ‐ は、きわめて異質な諸思想をそれぞれの旧来の支持勢力のもとへ立ち戻らせるであろう。そして、いつの日かもし別のカリスマ的政治家がみつかった場合には、その政治家のもとで、ふたたび勝利のための別の連合へ向かう新たな提携がはかられるにちがいない。

1990年に日本で「真正保守」なんて言葉があったかどうか覚えてないけれど、あったとしても、ここでの「真正」は「Authenticity」の訳で、日本の「真正保守」を念頭に置いたものではないと思う(多分)。


今、日本の保守に起きていることは、まさにこういった現象でしょう。