百姓読み

これまた何を言いたいのか解釈に悩む文章である。
祇園信仰、牛頭天王像と河音さんーーG大で授業: 保立道久の研究雑記

 電車の中。今日はG大で授業の日。私は授業というものが駄目で、基本的に御断りしているのだが、急な依頼につい御引き受けしてしまって緊張している。何処かで青木和夫先生が『万葉集』の「百姓読み」ということを書かれていたと思う。「百姓読み」というのは、すごい言葉であるが、当時はよく使われた言葉なのであろう。要するに素人読みということである。私は都立大で青木先生の授業を受けたのでわかるが、先生などは史料の読みでは玄人中の玄人であるが、『万葉集』の読みとなるとやはり素人という意識が強い御様子が、この短文からは伝わってくる(岩波の思想大系本『万葉集』の月報であった)。


「百姓読み」とは

漢字を旁(つくり)や偏(へん)の音から勝手に類推して我流に読むこと。また、その読み方。「絢爛(けんらん)」を「じゅんらん」、「懶惰(らんだ)」を「らいだ」と読む類。

「ひゃくしょう‐よみ【百姓読み】」 の意味とは - Yahoo!辞書


「当時はよく使われた言葉なのであろう」というけれど、じゃあ今はこれを何と呼ぶのであろうか?今でも「百姓読み」だと思うが。


「要するに素人読みということである」というのはその通りであろう。ただし、それは「漢字の音読み」に関してということだ。ところが

先生などは史料の読みでは玄人中の玄人であるが、『万葉集』の読みとなるとやはり素人という意識が強い御様子

と書いている。すると先生は史料の漢字は読めるが『万葉集』の漢字は素人読みしてしまうと受け取れる。しかしそんなことが有り得るだろうか?どこに書いてあろうと漢字の音読みは決まっている。わからなければ辞書を見ればいいだけのことだ。


したがってそういうことを言いたいのではないのだろうと推測できる。では何を言っているのかというと、さっぱりわからないのである。


可能性としては、(1)『万葉集』の和歌の中に「百姓読み」で解釈しないと意味がわからないものがあり、歌の作者が何の漢字を誤読したのかを解読することに関しては「先生」は素人だと意識しているという意味の可能性がある。ただしその場合は「百姓読み」を「素人読み」と説明した流れで「素人」と言っているのでかなり不自然ではある。


そこで第二の可能性。(2)保立氏が「百姓読み」の意味を「漢字の誤読」ではなく「素人による我流の誤解釈」だと理解して、「先生」は史料の解釈においては優れているが、歌集の解釈には素人だと意識していると受け取っている可能性。


こう解釈すれば、かなり意味ははっきりする。しかしいくらなんでも「百姓読み」をそう理解するなんてことが有り得るだろうかという疑問は残る。ただし「当時はよく使われた言葉なのであろう」などと言っているところをみると、その可能性はなくもないように思われる。


その他の可能性もあるかもしれないが、今のところ思い浮かばない。結局のところ「岩波の思想大系本『万葉集』の月報」を読んで青木和夫氏がそこで何を言っているのかを調べる必要があるだろう。


さらに疑問なのが、どういう意図があってこの話を冒頭に書いたのかがわからないのである。後に続く文章と何の関係があるのだろうか?おそらくは自身を謙遜して「素人」だと言いたいのだろうが、なんとなくその空気はわかるけれどもやっぱり意味不明なのである。