「保守」が極端化するとどうなるか?

よく勘違いされているが「保守」が極端化してもいわゆる「極右」にはならない。


では「保守」が極端化するとどうなるのかといえば、エドマンド・バーク

国家は、国家もしくは国家の創造物にかかわるもの、すなわち宗教の外面的制度、行政機関、陸海軍、税収、国家の承認によって生まれる諸団体にのみ関心をもつべきである。一言で言えば、真に本来的に公的なもの、公的な平和や公的な安全や公的な秩序や公的な財産にのみ関心をもつべきである。
保守主義 ― 夢と現実』(ロバート・ニスベット 昭和堂

と国家の役割について述べたことを忠実に実行しようとすることだろう。


すなわち福祉や景気対策などは国家が行なうべきことではなく一切する必要がないと主張することになる。


なお国家がするべきでないからといって福祉等が必要ではなく自業自得だという意味ではなく、それらは民間がやるべきことだという意味だ。キリスト教社会では教会がその役割を果たしていた。イスラム共同体やインドなどでは持てる者が持たざる者に施しをしなければならないという慣習があり、それを怠ればその地位を失うと聞く。中国でも同族のネットワークが存在する。日本にもかつては相互扶助の組織があったし、富裕な者は貧しい者に施しをするのが当然とされていた。施しをケチれば打ちこわしなどでさんざんな目に遭うリスクがあったのだ。なおアメリカでは民主党支持する州より共和党を支持する州の方が寄付率が高いという。


現代において、最小国家主義を忠実に実行するというのはさすがに現実的ではないので、そのような「極端な保守主義者」がいるのなら、俺は自分を「保守」だと思っているけれど支持しない。ただし、国家が個人に介入することを容認するということは自由を失う危険があるということを常に認識しておかなければならないとは思っている。これが「ソーシャルなリベラル」の立場だと逆に国家が積極的に介入して平等を実現することこそが自由への道だと考えているわけで鋭く対立しているのである。


したがって国家主義的な立場にある「極右」は本当は左翼に近いのであって、「保守」が極端化したものでは決してないのである。