フーコーとか知らないけれど(その2)

昨日書いたことについてなんだけれど、ima-inatさんのコメントにどう返事したらよいのか、ちょっととまどっている。そもそも、俺はima-inatさんの記事の浅田彰氏の発言に「どうなんだろう?」と思ったから書いたのであって、ima-inatさんと論争しようと思ったわけではなく、ima-inatさんが俺の書いたことに納得できなくても、俺とima-inatさんの認識は違いますねという話であります。


それを踏まえた上で、ご質問について答えますけれど、俺のいう「中間集団」とは何かといいますと、「個人と大集団との中間にある集団」ということになります。具体的には家族だとか、学校だとか企業のことです。企業と一口に言っても、さらにその中には、支店だとか部署だとか同期だとかによる小集団が存在します。また、最近ではインターネットの世界も中間集団であると言えると思います。もちろんこの中にも「2ちゃんねらー」などの小集団が存在します。確かに現在の日本では隣組制度とか、町内会は壊滅したかもしれませんが、中間集団の消失は何も現代社会に限ったことではなく、歴史上何度も繰り返されてきたことだと思います。

そして、極めて大きな、フォーマルに組織化され、計画された非人格的な組織内にさえ、インフォーマルで極めて人格的な小集団が多数存在しているのが普通である。より大きな組織の間隙を埋めているこれらのより小さな集団は、より大きな組織の目標を、さまざまに補ったり妨害したりすることができるのである。
(『現代社会学入門 (一) 』ロバート・ニスベット 南博訳 講談社

というようなことを俺は支持しているのであります。


「外部から普遍的な価値観が介入する」とは、文字通り、中間集団内部に中間集団内部ではない外部からもたらされた価値観が介入するということです。具体的には夫婦喧嘩は夫婦の間で決着すればいいところに、「正義」やら「平等」やらの普遍的とされる価値観を持ち込んで、その決着の仕方はおかしいなどと外部から介入してくるというようなことです。もちろん今話題の児童虐待などのように、外部が積極的に介入すべきとされているような問題もありますけど。


で、それは違うとお思いでしたら、それは考えが違うということであって、それ以上の議論は必要ないと思います。



次に、浅田彰氏の発言についてですけれど、浅田氏は

しかし、すぐキレると言われる最近の子供を見てもわかるように、幸か不幸かディシプリンはもはや機能不全に陥り、いまや、主体化されない人間たち、バラバラのボディ・パーツの集合、一瞬一瞬で移ろう解離した感覚の束みたいな人間たちが、アノミーに近い状態で浮遊している。

と書いています。しかし、「すぐキレると言われる最近の子供を見てもわかるように」と言いますけれど、それは誰もが共有している価値観ではないと思います。


奇しくも、ウィキペディアフーコーの解説には、

フーコーの思想においては「絶対的な真理」は否定され、真理と称される用語や理念は、社会に遍在する権力の構造のなかで形成されてきたものであると見なされる。

ミシェル・フーコー - Wikipedia
と書いてあります。「すぐキレると言われる最近の子供」がいることが、浅田氏にはディシプリンはもはや機能不全に陥ったということになる例に見えたのかもしれませんが、同じように誰もが考えるというわけではありません。彼には彼の「自律」が存在するのかもしれません。デュルケームは「自殺者でさえある種の規範の観点から行動している」と述べているそうです。


で、これだけなら、浅田氏が妥当でない例を持ち出したのだと言うこともできるでしょうけれど、その後に、フーコーの例を持ち出して、

たぶん、フーコーは、そういう現代のアメリカと古代のギリシア・ローマを結びつけながら、自律――しかも他律(法)の内面化ではない自律を考えようとしていたのではないか。

と書いているわけです。しかし「すぐキレると言われる最近の子供」とフーコーの違いはどこにあるというのでしょう。外部の人間が違いを判断できるとは思えません。「最近の子供」にもまさにフーコーのような自律が存在しているのかもしれません。


「最近の子供」とフーコーに違いがあると考えるのは浅田氏の主観によるものでしょう。そして、そのことを浅田氏が自覚しているように感じられない、普遍的な価値観があるものとして論じているようにみえる。自覚しているのならそれを説明する必要があったのではないかと俺は思うわけです。

しかし、国家がディシプリンの失効を判定したからコントロールの方向へ向かった、というのは浅田さんの話にあったことでしょうか。

について、

しかし、すぐキレると言われる最近の子供を見てもわかるように、幸か不幸かディシプリンはもはや機能不全に陥り、いまや、主体化されない人間たち、バラバラのボディ・パーツの集合、一瞬一瞬で移ろう解離した感覚の束みたいな人間たちが、アノミーに近い状態で浮遊している。となると、情報ネットワークでそれらを直接に監視/管理するほかないということになり、

「となると」と書いてあるので「ディシプリンの失効」→「管理社会」という因果関係があると言っているように読めるのではないでしょうか?


「国家がディシプリンの失効を判定したから」とは浅田氏は言ってませんね。俺が問題にしているのは、誰が何をもってそれを判定するのかについて浅田氏が言及していないことです。「絶対的な真理」が否定された世界で、ディシプリンの失効を判定する主体は誰なのかというのは非常に重要な問題だと思います。

あなたの認識では、ディシプリンは失効しているどころか、なお私たちを規律=訓育している、ということなのでしょうか?

上に書いたように、「すぐキレると言われる最近の子供」にも自律が存在している可能性があり、俺は存在しているだろうと思います。



なお、前の記事の追記にも書いたように、この点については、俺は記事を書いた後に気付いたのだけれど、講演会で宮台真司氏が、

いまや多くの犯罪は「我々の物差し」からすると「感情が壊れた人々」によって行なわれるので、理解できません。しかし「感情が壊れている」と判断する「我々の物差し」も先験的ではなく経験的なものです。既存の社会性を前提にした投射(プロジェクション)です。

とちゃんと指摘していますね。ここでの一連の宮台氏の発言は浅田氏の発言をかなり否定しているものだと俺は思います。


どっちを支持するかはご自由にということで。