福島正則の「西上」(おまけ)『慶長年中卜斎記』について

白峰旬氏の論文『フィクションとしての小山評定 : 家康神話創出の一事例』では「3.『慶長年中卜斎記』が描く小山評定」と題して『慶長年中卜斎記』について論じている。その後、本多輶成氏がこの前「小山評定の再検討」( 『織豊期研究』14号)を発表し…

福島正則の「西上」(その7)

『「人数之儀者被上」は正しいけれども、正しくなく「止」が正しいという可能性』とはどういうことかといえば…と、その前に4年前に話題になった「石谷家文書」の話。説明会で岡山県立博物館の内池英樹氏の話を聞いた時の話。記憶に頼るので間違ってるところ…

福島正則の「西上」(その6)

もう一つの可能性 既に書いたように、福島正則宛家康書状の「人数之儀者被上」の「上」が上洛するという意味である場合、『福島太夫殿御事』はそれにピタリ当てはまる。だが実を言えばここに一つの大きな問題がある。それは通説では『武徳編年集成』にしたが…

福島正則の「西上」(その5)

「西上」とは「西に進む」という意味ではなく「上方を目的地として進む」という意味。よって福島正則宛書状に「人数之儀者被上」とあるのは「正則の軍勢は上方に向かわせ」という意味。正則軍を上方に向かわせる理由は、三成と対決させるためではなく正則の…

福島正則の「西上」(その4)

『福島太夫殿御事』の前後が史籍集覧でわかったので引用しておく。読点は適宜入れた。 「福島太夫殿御事」(前略)景勝越後より奥州え國替仕候に付三年在京御免に候、然共諸大名誓紙景勝一人不被致候、景勝登誓紙可有旨、家康公被仰越候得共、景勝返事三年在…

福島正則の「西上」(その3)

福島正則宛書状が「人数之儀者被止」ではなく「人数之儀者被上」なのだとしたら、正則の目的地は京・大坂でなければならない。では史実の正則はその後どうなったかといえば、白峰旬氏の論文によれば 福島正則が清須城に到着した日付は不明であるが、8月4日…

福島正則の「西上」(その2)

家康が7月19日時点で福島正則の軍勢を京・大坂に行かせる決定をしていたとすれば、「小山会議はなかった」ことの根拠になるかもしれないが、それはそれとして、このこと自体が関ケ原合戦研究における重要なはずだ。だが、これについてはあまり注目されてない…

福島正則の「西上」(その1)

「西上」とは何か?(目次)「西上」とは「東方から京都に行く」という意味。信長時代には安土に行くことも「西上」、秀吉時代には大坂に行くことも「西上」だったかもしれないが、基本的にはそういう意味。したがって「武田信玄西上作戦の目的は上洛ではな…

「西上」とは何か?(目次)

「西上」とは何か?(その1) 「西上」とは何か?(その2) 「西上」とは何か?(その3) 「西上」とは何か?(その4) 「西上」とは何か?(その5) 「西上」とは何か?(その6) 「西上」とは何か?(その7)

『陰謀の日本中世史』について(目次)

『陰謀の日本中世史』について(その1) 『陰謀の日本中世史』について(その2) 『陰謀の日本中世史』について(その3) 『陰謀の日本中世史』について(その4)「愛宕百韻」について(1) 『陰謀の日本中世史』について(その5)「愛宕百韻」について(2)…

『陰謀の日本中世史』について(その9)

「黒幕陰謀論」も「隠された真実・歪められた歴史」も根っこは同じ。「陰謀論」の定義は定まっていないから、前者を陰謀論とし後者は陰謀論ではないとするのは自由だが同類であることには違いない。『陰謀の日本中世史』は前者への批判が中心だが、実朝暗殺…

『陰謀の日本中世史』について(その8)源実朝暗殺事件(その2)

源実朝暗殺事件の真相は?といった場合、まず当たるべきは一次史料である。これは本能寺の変に関して学者や研究者が良く言うので鍛えられている。で、一次史料でわかるのは、建保7(1219)年1月27日の夜に鶴岡八幡宮で将軍実朝が公暁に殺され、公暁もまた討た…

『陰謀の日本中世史』について(その7)源実朝暗殺事件(その1)

『陰謀の日本中世史』俺はまだ全部読んでない。文字に目を通すだけならそんなに時間かからないけど、信長のことはそれなりに理解できても、それ以外を消化するのは時間がかかる。ただ批判の矛先はやはり黒幕説・真犯人説みたいなのが中心のようだ。しかし「…

『陰謀の日本中世史』について(その6)ルイス・フロイスについて

次に 信長が驕り高ぶり自己神格化を図ったがゆえに全知全能の神デウスの怒りを買い非業の死を遂げた、というストーリーをフロイスがでっち上げたのだろう。(P218) について。そもそもこれは現在の学界における定説なのだろうか?脇田修氏や三鬼清一郎氏は…

『陰謀の日本中世史』について(その5)「愛宕百韻」について(2)

もう一度大村由己の『惟任退治記』(天正10(1582)年) 扨五月廿八日、登愛宕山、催一坐之連歌、光秀発句云、 ときは今あめかしたしる五月かな 今思惟之、則誠謀反之先兆也、何人兼悟之哉 ここには「雨が下しる」とは「天下を統治する」という意味だという説明…

『陰謀の日本中世史』について(その4)「愛宕百韻」について(1)

次に しかし、これらの事件は現在では江戸時代の作り話と考えられている。(P206) について。これは「怨恨説」の根拠となっている二次史料の記述のこと。確かにこれらは史料的に問題ある。ただし「作り話」とは ないことをいかにも本当らしく作った話。また…

『陰謀の日本中世史』について(その3)

『陰謀の日本中世史』第六章「本能寺の変に黒幕はいたか」(P203〜P264)から、「隠された真実・歪められた歴史」的な記述を探してみる。 光秀と関係のあった人々、事件の真相を知る人々は後難を恐れて口をつぐみ、証拠隠滅を図ったものと思われる。 (P204…

『陰謀の日本中世史』について(その2)

具体的な話をする。といっても俺がそれなりに知ってるのは信長に関することだけだが。 公家の吉田兼見は、本能寺の変後に勅使として光秀と交渉したこと、明智光秀敗北後に日記を書き直して光秀との交渉に関する記述を抹消したことなどから疑われたが、(中略…

『陰謀の日本中世史』について(その1)

呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』 (角川新書)売れていて、なおかつ評判が良い。陰謀の日本中世史 (角川新書)作者: 呉座勇一出版社/メーカー: KADOKAWA発売日: 2018/03/09メディア: 新書この商品を含むブログ (13件) を見るというわけで滅多に本を買わない俺…

付喪神について(その15)

あと残るは「つくもがみ」という名前の器物について。なんだけどほとんど調べてない。 まず有名な付藻茄子。 「九十九髪」「作物」とも記される。 ⇒静嘉堂文庫美術館 | 唐物茄子茶入 付藻茄子 とある。ただ、どの名称がどの史料に載るかといった詳細がわか…

付喪神について(その14)

次に「精霊」について。 陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すと云へり。 我に若し天地陰陽の工にあはば、必ず無心を変じて精霊を得べし。 辞書的には「精霊」とは せい‐れい【精霊】 1 万物の根源をな…

付喪神について(その13)

まだまだ論じたいことはあるけれど、もう限界。一番気になるのは、「精霊」「心」「情」といった言葉が何を意味するのかということ。 「心」については 我に若し天地陰陽の工にあはば、必ず無心を変じて精霊を得べし。 或時、妖物の中に申しけるは、「夫れ我…

付喪神について(その12)

『付喪神記』は内容に矛盾があるように見える。矛盾してると断言できれば話は割と簡単だけれど、もしかしたら矛盾ではないかもしれないと考えて理解しようとすると、何通りもの可能性が出てきて深みにはまってしまうのであった。 陰陽雑記に云ふ。器物百年を…

付喪神について(その11)

こゝに康保の頃にや、件の煤払とて、洛中洛外の在家より取出して、捨てたる古具足ども、一所に寄り合ひて評定しけるは、「さても我等、多年家々の家具となりて、奉公の忠節を尽したるに、させる恩賞こそなからめ、剰へ路頭に捨て置きて、牛馬の蹄にかゝる事…

付喪神について(その10)

付喪神についてはまだまだ論じたいことがある。きりがない。 『付喪神記』より。 既に其の夜にもなりしかば、古文先生の教への如く、各其の身を虚無にして、造化神の懐に入る。彼等すでに百年を経たる功あり、造主に又変化の徳を備ふ。かれこれ契合して忽ち…

付喪神について(その9)

茶器の「九十九髪茄子」についてはもう少し調べてから書こうと思ってたんだけど、さっき別件調べてたら面白い話みつけたのでそれについて 加賀国金沢藩主前田利常の言行録『微妙公御夜話』という史料がある。そこに 一、御家のつくも髪の茶入、京都より売り…

付喪神について(その8)

付喪神といえば器物の妖怪だということで、日本・中国あるいは朝鮮の器物妖怪との比較研究がもっぱらなされているの。しかしながら年を経ると妖怪化するのは何も器物に限ったことではない。そのもっとも代表的なものは猫又であろう。ところがネット検索して…

付喪神について(その7)

「付喪神」についてのここまでの俺の推理まとめ 「つくもがみ」とは本来は妖怪でも何でもなく単なる「不用になった古道具」のこと(使用年数も関係ない)。 「つくもがみ」の名前の由来は『伊勢物語』の「つくも髪」から 「つくも髪」=白髪=高齢女性=男か…

「淀君」が蔑称だという珍説(追記その3)

『絵本太閤記』の「淀殿」「淀君」 勝家籠北庄城 此姉姫は後に秀吉公の妾秀頼の御母堂淀君と申せしは此御方也 佐々成政生害 此ころ天下の美人且秀才と時めきて秀吉公の御覚も他に勝りたる淀殿に見せばや此人いかに賢くとても此花の出所は知られまじと黒百合…

「淀君」が蔑称だという珍説(追記その2)

まあ「淀君」という名称がイレギュラーだというのはその通りだろう。彼女は豊臣家の人間といっても、彼女は「浅井氏」であり、「藤原姓」で「豊臣姓」ではないと考えられるから、摂家の女性に与えられる「君号」というのも正確ではない(ここのところ無知な…