信長学

織田信長の岐阜命名(補足)

織田信長は周の文王の故事にちなんで岐阜と命名した(ただし以前から文人が「岐陽」などと呼んでいた)というのはよく知られた話。 しかし、信長が周の文王の故事にちなんで岐阜と命名したという話は、そもそも誰が言い出したのか?実はそんな話は存在しない…

信長はなぜ三郎なのか(その9)

☆仮説 その4 李三郎 「李三郎」って誰?って話だけれど李隆基のこと。って李隆基って誰よって話ですよね。 李隆基とは玄宗のこと。 ⇒玄宗 (唐) - Wikipedia 皇帝の長男を太郎、次男を次郎、三男は三郎と呼ぶ。玄宗は三男だから三郎。 万里集九の『梅花無尽蔵…

信長はなぜ三郎なのか(その8)

☆信長の蛇退治(4) 猪と蛇といえば、気になるのがヤマトタケルの伝説。 『日本書紀』景行天皇 於是聞近江胆吹山有荒神。即解剣置於宮簀媛家。而徒行之。至胆吹山、山神化大蛇当道。爰日本武尊不知主神化蛇之謂。是大蛇必荒神之使也。既得殺主神。其使者豈足…

信長はなぜ三郎なのか(その7)

☆信長の蛇退治(3) 少し話は脱線するけれど、壱岐三郎に討たれた伊吹の弥三郎が「井の口」にまつられ、三郎信長を暗殺しようとした者の名が「井口太郎左衛門」だったのかについての考察。 「井の口」とは何かというに、 せき止めてある水を落とす口。また、…

信長はなぜ三郎なのか(その6)

☆信長の蛇退治(2)引き続き『信長公記』(角川ソフィア文庫)より 正月下旬、彼の又左衛門をめしよせられ、直に御尋ねたされ、翌日、虵がへと仰せ出さる。比良の郷・野木村・高田五郷・安食村・味鏡村百姓ども、水かへつるべ・鋤・鍬持ちより候へと仰せ出た…

信長はなぜ三郎なのか(その5)

☆信長の蛇退治(1) 伊吹弥三郎が蛇だということについて既に書いた。弥三郎は、壱岐三郎こと佐々木頼綱に退治された(と伝説ではなっている)。 ところで『信長公記』に、信長の蛇退治の記事がある。『信長公記』(角川ソフィア文庫)より引用。 一、爰に希…

信長はなぜ三郎なのか(番外編3)

佐々木氏は宇多源氏だとされる。 ⇒佐々木氏 - Wikipedia初代が成頼。次が義経。次が経方。次が爲俊。 次が佐々木秀義。佐々木三郎。 次が定綱。太郎。次が広綱。太郎。 次が佐々木信綱。四郎。柏原弥三郎を討った人物。 近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後…

信長はなぜ三郎なのか(番外編2)

前にも引用したが、『鍛冶屋の母』(谷川健一著 思索社)から。 たとえば、十五世紀の初頭に完成した「三国伝記」には次のような話が掲げられているという。近江国伊吹山に弥三郎というの者が住んでいて、昼は岩屋に住み、夜は遠境に住還し、人家の財宝をう…

信長はなぜ三郎なのか(番外編1)

話は少し脱線するんだけれど「美濃の蝮」こと斎藤道三について。 ⇒斎藤道三 - Wikipedia 道三がなぜ「マムシ」と呼ばれるのか俺は知らない。 毒蛇としてのイメージから、クセのある、どちらかといえば凶暴な人物の二つ名とされることも多い。(例:斎藤道三→…

信長はなぜ三郎なのか(その4)

☆仮説 その3 風の三郎(3) もし、織田信長の「三郎」が、弥三郎風の「三郎」と関係するとすれば、『鍛冶屋の母』(谷川健一著 思索社)に興味深い記述がある。 たとえば、十五世紀の初頭に完成した「三国伝記」には次のような話が掲げられているという。近…

信長はなぜ三郎なのか(その3)

☆仮説 その3 風の三郎(2) 桶狭間合戦の『信長公記』の記述、 山際迄御人数寄せられ候の処、俄に急雨石水を打つ様に、敵の輔に打付くる。身方は後の方に振りかゝる。沓懸の到下の松の木に、ニかい・三かゐの楠の木、雨に東へ降倒るゝ。余りの事に熱田大明神…

信長はなぜ三郎なのか(その1)

☆仮説 その1 「侍」「三郎」はかなで書けば「さぶらう」。「侍」の語源も「さぶらう」。 「さぶらう」から三郎。⇒侍 - Wikipedia ☆仮説 その2 「夷三郎」 また、えびすのことを夷三郎と呼ぶのは、『日本書紀』において3番目に生まれたことに由来するとされる…

信長はなぜ三郎なのか(その2)

☆仮説 その3 風の三郎 酒呑童子について述べるまえに、伊吹の弥三郎に触れておく必要がある。佐竹昭広氏の「酒呑童子異聞」の冒頭に「弥三郎風」のことが紹介され論じられている。ここにいう弥三郎は越後国の弥彦に関係のある弥三郎ではない。近江国伊吹山を…

織田三郎

織田信長の通称は「三郎」。 それについて、織田信秀の三男だったから三郎なのだという説がある。俺がネットを始めた頃に掲示板で、そういう話題が結構あった。 Wikipediaには、 尾張国・古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれ[2]、幼少時に那古屋城主となっ…

桶狭間合戦の勝因

織田信長が今川義元を討ち取り今川軍を壊走させた桶狭間の合戦。信長の勝因について多くの研究者が論じていて、たくさんの説があり、決着が付いていないと言えるだろう。 ⇒桶狭間の戦い - Wikipedia ところで、この時豪雨が降ったという話はとても有名。その…

熱田の楊貴妃伝説

733年の遣唐使の際に日本・新羅・唐・渤海の間に極めて重大な緊張関係のことについては前の記事で書いた。 ⇒井真成は留学生ではないかも まさにこの時代。唐の皇帝玄宗は日本侵攻を計画していた。日本国存亡の危機である。日本の神々は一堂に会し策を練り一…

井真成は留学生ではないかも

⇒asahi.com(朝日新聞社):「井真成」はどんな人? 中国で官吏説 - 文化トピックス - 文化 だが、韓教授は、733年に到着した次の遣唐使の随員だったとの論を展開する。 まず、唐の制度では、官立学校の在学期間は最長9年までで、それ以上は滞在もできな…

織田信長の岐阜命名(その他)

万里集九の『梅花無尽蔵』に、 濃之井口有祥雲院 とある(『梅花無尽蔵注釈』市木武雄 続群書類従完成会)。「美濃の井口に祥雲院がある」という意味。「岐陽」とは別に「井口」を用いているってことは、「岐陽」と「井口」は別の地ということではないかと思…

織田信長の岐阜命名(その4)

ところで中世の文人禅僧は「尾張」のことを何と呼んだかというと、「蓬莱」(または「小蓬莱」「尾陽」)と呼んだ。 これも信長について考えるとき、結構重要なことだと思うけれど、それはまた次の機会に。

織田信長の岐阜命名(その3)

ついでだから『岐阜志略』も調べてみた。『安土創業録』の記事によるものらしい。 ⇒岐阜志略(近代デジタルライブラリー) 岐阜は織田信長始て名付られしとぞ創業録に曰信長は井ノ口の城手に入けれは澤彦和尚へ使者を以て爰に来り給へ宣ふ澤彦井ノ口に到る信…

織田信長の岐阜命名(その2)

ところで、この件について調べていたら衝撃の事実を発見。 いや、前から知っていたという人もいるだろうけれど、俺はすげーびっくりした。これは絶対知らない人の方が多いでしょう。 岐阜命名の通説は、沢彦(たくげん)という禅僧が進言した「岐山・岐陽・…

織田信長の岐阜命名

「信長学」にちなんで俺もこれから時々信長について書いてみようかと思う。 「岐阜」という地名は織田信長が命名したという説が良く知られている。一方、信長以前からあったという話もある。 ただし、岐阜市案内(岐阜市教育会編、大正4年)では、「一説には…